昭和57年01月10日 月次祭



 今日は朝から、先日の合楽の宴で頂いた、くじをみんな持って見えて、それを一人一人、まぁ具体的にご理解を頂きたいという人が続いておりました。皆さんも銘々頂かれてまた銘々、感じられた事であろうと思いますが、結局神様があなたに下さる御教えですから。それこそかしこみかしこみ承り、それを愈々一年の信心の、いうならば指針ともして、信心を進めて行かなければならんと思います。
 最近言われますように、教祖金光大神が天地書付に、金光教の信心をもうこれに極まったと。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。ですからどの御教えを行じましても、その和賀心になって行くと言う事が、第一のおかげです。これは自ずとねそうなれるんだと。我情我欲を離れて真の大道を開き、我が身は神徳の中に生かされてある。日々信徳の中に生かされてある実感においての、信心生活でありますでは、ね。愈々有難い生活が出来る訳ですが。
 有難い生活が出来ると言うても、その有難い生活が 愈々いうならば神様も喜んで下さる。私どもも喜べれる。所謂あいよかけよの世界、合楽世界へと、こうおかげが広がって行かなければいけんのです。今朝からの御理解にお話を頂いて、帰る道にはそれを落としてしまいと言う様な御理解がありますね。有難く頂いて帰ればお徳は、船にも車にも積めぬほどの神徳があると教えられる。最後に日々の改まりが大事じゃという風に、まぁ締めくくっておられるのですけれども。
 私はこの改まりと言う事が、お互いここは自分が改めにゃいかん。ここはひとつ本気で改まらせて貰わにゃと、気がつかせて頂く改まりと言う事も、さることながら。まぁそれこそ、皆さんが頂かれた一つ一つの御教えを、本気で行じて行かれておると、もう改まらなければ前に進まれない事なっておる。いや改まらなければ馬鹿らしい事になってくる。そういう改まりから、今日頂くご理解の中に、まぁ私初めて感じた事でしたけれども。改まりと言う事は、いうなら過去の宗教又は自分自身が感じておる。
 宗教とは金光教とは、過去に頂いてきた信心と言った様なもののイメージが、こうアップされて行くと言う事。いうならば本当から本当の事が段々分かって行く。ためには本当でなかった事が、スキッとこう切り捨てられて行くというかね、心がすっきりとして行くと言う事。ははぁこういう改まりが大事だなと。今日はそういう御理解を頂きながら、さきほど、福岡の久保さんという方、福岡から毎日日参してこられます。沢山こういろんなもん持って来とりなさいますもん。
 何のお供えじゃろうかと思いよったら、お供えじゃなかった。家にお祭りしてあった、それこそ様々なまぁ神仏様でしょう。私はほどいてもみませんけど、沢山持って見えて今朝の御理解を頂きよったら、その本当にすっきりとして現在、合楽で言われておる信心を、すっきりと頂くためには、ここから始められなければというお気持ちが、まぁ今までは、もちろん拝んでおられた事でございしょう。何様神様というものを、全部ここへ持ってきて、まぁここで処理して頂きたいという訳であります。
 これは過去の宗教のイメージというものが、私はあのまぁそれをとってしまう事は要らんにしてもテレビなんかで、今何処の例えば太宰府さんとか、大きな宮寺なんかにある。正月でも沢山なお参りがあります。そらもう賽銭だけでも一億もあると言った様な所がある。もうとにかく今年は不景気のせいだろうお参りが多かったち。まぁよそに遊びに行かれんけん、神様になっとん参ろうちいうごたる風じゃ。それでまぁ多かったんだと言った様に言ってましたが。
 そういう神様と一緒たくりんにね、したのでそういうイメージではね。神様とは悲しい時に頼む、神頼みと言った様な信心から、ね。ですからそういう人達もあっても良いでしょうけれども。本当にこりゃ愈々、和賀心時代を世界にという風に、合楽で言われるが、まぁ大変な事だなぁと。昨日名古屋の、あるご信者さんから、この頃から合楽の事を、金光青年やら、あいよかけよのあれで紹介されておりましたから読んで。もう矢も盾もたまらんという思いでお参りをしてきた方があった。
 はぁもう先だってからは自分の信心の生い立ちから、何十年の事をこまごまと、もう沢山なご本にして良いぐらいな、沢山なお手紙を竹内正教先生宛てに書いてきておられる。そして、合楽にご縁を頂いたと言う事が、もう本当にそれこそ今の竹内先生じゃないけれども、日本中それこそ行脚してからでも、真の信心を教えて貰う所があるならばという風に思うておったと、竹内先生が言っておられましたように。
 その方もそれこそ日本国中偉い先生がおられる、ゴヒレイの立つ教会があると言えば、そこにお参りをして教えを受けてきたけれども。初めていうならば金光教の信心は、これだというものにこう巡り会えたという歓びを、何日おきにはがきで。有難いそして実験実証されておる様子をね、竹内先生宛て言ってこられる。今朝ほどここで何時も聞かせて頂くんですけれども、昨日もやっぱ来ておりました。
 それで聞かせて頂いておる、そのハガキの中に合楽の親先生が言われるように、天地の親神様は千年万年かかっても、丸うせずにはおかんという、御働きしかないんだと。もうこれを頂いた時にもう本当に感極まった。合楽が一切神愛と言われるのはここが分かって、始めて神愛と言う事を分からせて頂くと言う様な、喜びのハガキでございました。それで私が今も申しました事は、何時も良く申します事ですけれども、ね。神様は千年万年かかっても丸うせずにはおかんという、そういう働きだけしかせん。
 だから、そこがいうなら根本的な所が分かる。例えばこう言う事を説いてきた宗教は、まずなかったろうとこう思う。ですから過去のいろんな、勉強してきた信心宗教というものは、もうそこにかなぐり捨てられなければ本当な事じゃない。その名古屋の方もそうです。どこどこの偉いお徳を受けられた先生のお話。どこの教会のゴヒレイの輝く教会で出された本と言った様なものを、沢山もうそれも何べんも、何べんも繰り返し繰り返し読まれただろうと。手垢がついておるようなご本。
 しかもそれに上張りをこう張って、大事にしておられたそのご本を、竹内先生宛てにみんな送ってこられましたげな。もうこれからは、合楽理念一本で信心を進めて行く以外はないという風に感じられたのではないでしょうか。ね。これも昨日あるどっか教会から、これはおかげの泉の編集部あてに来たお手紙でしたけれども。今後の金光教はもう合楽の信心によって行かなければ、本当の金光教にはならない、本当のゴヒレイにはならないと、まぁ断言的な表現をして。
 今後もぜひおかげの泉を送って頂きたいというて、お金を同封して送ってきておりました。何ち言う教会じゃったかね。兵庫県の、ね。そう言う様なですよとにかく、例えばほんならその兵庫県のその教会の先生なんかは、過去の金光教というものがです。これではいけないと分かって始めておかげの泉により、合楽の信心が合楽理念がこう、勉強しておられるという。ここん所がすっきりしませんとね。
 例えば色々な、皆さん個人個人に神様が働き掛けてござるとしか思われない様な、適格な御教えを頂いた。だからその御教えを本気で、徹して行ずるならば、確かに自分の心の中にある、改まりも又は和賀心も、又は我情も我欲も取れて行く事に、もうびっくりするほど気づくだろうと思うです。教えというのはそんなに尊いものです。一つの教えに本気で取り組んでそれを、本気で徹底して行じて行きよると、いわゆる和賀心が生まれてくる。我情我欲がいつの間にか取れてくる。
 いや我情我欲を言うても馬鹿らしい。ね。と言う様なおかげが頂けれるんですけれども。ほんならそういうおかげが頂けるんですけれども、それを愈々いわゆる偉大なるものと言うでしょうか。本当に神様の願いとされておる世界、万国津々浦々に和賀心時代をと言った様な、大きな願いに触れて行くためには、いうならば私どもの過去に知ったまぁ宗教の知識とか、又は宗教というものがです。もういっぺんすっきりとイメージがアップされなければならない。でないとすっきりしたものが入ってこない。
 例えばその名古屋のご信者さん場合なんかはね、天地の親神様の願いというものは、一人一人にかけられる願いというものは、もう縁を頂いたが最後その人を和賀心にせずにはおかんという働き、丸うせずにはおかんという働き。その働きそのものが私どもが難儀と思うておるその難儀が、ね。今日はあちらの大木のねあの、三瀦郡でしょうかあっちは。あちらから、今あの大木町から沢山お参りがあるんです。
 その中の一人が今日お礼に出て見えて、何か、十万以上もするような、何かあの(れいふく?)があったでしょう。それを引き当てらられた。それが大変立派なもので、大変値打ちのあるんもんだという事を、帰ってみてからそれが分かったんです。それからそのまま、今日はお礼に行かにゃと言われるそうですから。その、沢山、お酒の(?)持って、お礼に出てこられたんですけれどもね。その貧乏くじは宝くじという籤を引かれた。そしたら、景品がちょこっとしたものばかりじゃった。
 ほんな貧乏くじじゃった。そしたら貧乏くじに、その宝くじの方がついとったと、こういう訳なんです。本当に貧乏くじは宝くじだと言う様な事がね分からせて貰う。難儀そのものが、神様が愈々、丸うせずにはおかんという御働きだと言う事が、本当にすっきりと分かった時に、その事にお礼が言えれる訳なんです。そこに私どもの助かりがある訳です。私どもの行く手には様々な事がありましょう。
 様々な事そのすべてが丸うせずにはおかんという御働きであると言う事が分かる時に、その事にお礼を言わずにはおかれん。自分の心が愈々丸うなって行く、それがしかも愈々過去の宗教のというか、色々のいうなら観念というものが、本当な事から本当な事へ変えられて行くです。今日はどう言う様な事でしたかしら。あぁそうそう金にもの言わせるかなんかという籤を引き当てた方があった。そしたらあの金庫です。あれもやっぱ数万円するものでしょうがね。
 そして今日も持ってきた、息子を連れてこられたばってん、自家用車に乗らん。だから小型のトラックかなんかを借りてから、頂きに来ると言う事でしたが、ね。今日は親子で参って見えました倉本さんです。もう本当に親先生神様の間違いのない。こちらの心ひとつですべてを作ると言われるが、本当に心ひとつでこの神様は動いて下さる神様ですよと言うて、今日お届けされたんですけれどもね。親子で出がけに今年は娘さん、幸子さんと言う。幸子さん愈々十五年の記念祭。
 それあの信徒会館の御造営があっての、いうならまぁ少しばっかり残っておる。それの完納と言う事が、毎朝朝のご祈念の後に、総代さん方からお届けがありよるが。どうでもそこにおかげを頂くためにはね。いうならばもう愈々、いうならば買うと言う事を止めようと。最低の出来るだけのいうならば、始末倹約をさせて頂いて御造営のおかげを頂こうじゃないのと言うて、親子で話させて頂いた。そしたら娘さんがあの、和という私が書いた額の入ったあれを頂かれた。
 お母さんがいわゆる金庫を引き当てられた。大体籤は良かばってん景品が悪かち言うごたる人が、大体、熱心な方達ですけどもね。だから景品の良かつは信心の薄か人のごたる風に、私も思うとったばってん。今日もそのお話聞いてからそうじゃない事を感じたです。ね。本当にほんなら十五年の記念祭なら、記念祭に願いをかけ思いをかけようとこう思うて、話し合うてきたらそういうおかげを頂いたと言う事でした。それこそ金の力にもの言わせれるような、一つおかげも頂きたい。
 そのためにはこと神様の事に私どもが、おかげを頂きたいと願うたら、ね。それを愈々実験して行かなければ、実証は生まれません。先だって二、三日前でしたでしょうか。五日でしたか壮年会の時に、正樹先生が発表してました。今度来年の教祖百年祭。今年は合楽の十五年の式年。十五年の式年祭に掛ける願い。百年祭に掛ける願いというものをです。今から神様にお願をしてそういう働きかけを、させて頂いております。自分の関係のある人達。信心のない人達だけれども。
 来年は金光教の百年の記念のお祭りがあるから。どうでも一つお参りなさらんかというて、信心のない方達をもう何人かお導きをさせて頂いておるという話をしておりました。皆さんもどうぞその合楽から、千人参りの計画が立てられておりますから。おかげを頂かれるようにというお話でした。これもその日でした。あの秋永嘉朗さんのお得意さんの方が、お参りをして見えてから。今日は嘉朗先生が見えちから、とても有難いお話をして頂いたと主人に信心のない。
 そしてそのお話の後に来年は百年祭ですから、ご夫婦揃うて一つ御本部参拝なさっちゃどうですかち言うたら。主人が大変喜んでほんなら、どうでん今度はいっちょ御本部参拝を、来年はさせて頂こうと言うたという、お話を聞かせて貰うたが嬉しいですね、やっぱり。皆さんどうでしょうか。十五年祭の事をどういう風に思うておられるだろうか。来年の百年祭にはどうでも一家中で、また親戚にも呼び掛けて、また知った人達にも言うて、一人で十名ずつお導きをさせて頂いたら。
 百名の信者がおれば千名になりますと言うて、正樹先生は言ってました。だから本当は合楽で千人参りぐらいは、毎月でも出来ても良いぐらいだと思うんですけれども。合楽ではあんまりね、御本部参拝なんかの事には力を入れません。それは合楽でまぁある意味で、色々と教えが徹底しておりますから、ね。御本部参拝しておかげを頂こうとか、徳を受けようとかいう話が、あんまりありませんもんね。私の場合は昔は矢張り御本部参拝をさせて頂く事は、本当にお徳を頂きに行く事のように思うておった。
 けどもどんなに素晴らしいお話を、合楽で頂いておってもです。ただ耳が肥ゆるだけでは、おかげになりません。それはやっぱり実験実証されて、それが貫かれる。だからあれもこれもという事は要らん。一つの事の御教えでも本気で頂いた、その御教えを、自分の血に肉に出来る所まで、行じさせて貰うと同時に、私どもの今まで持っておる宗教に対する、神様に対する観念というものをです。いうならば合楽理念に切り替えて、すっきりと合楽理念による所の助かり。
 しかもその心は愈々、和賀心時代を愈々、自分の周囲に広げて行こう、進めて行こうと言う様な、大きな願いに立たせて頂かなければいけません。ね。御教えを本気で行じておると、いつの間にか和賀心が育っていって行きよる。いつの間にか我情が取れておる、我欲が取れておるという風に最近頂きます。確かにそうですけれどもそれがね、根本的な所に、いうなら何々様と言った様なものの、その観念があったんでは。
 すっきりとしてこん。愈々すっきりと合楽理念という、いうならば人間の助かりの理念というものが、どんなに素晴らしいいうならば理念であるかと。今朝からもあんまり簡単です、明瞭ですしかもおかげが確かですと言うように、いうなら合楽理念のキャッチフレーズの様な表現を致します。余りにも簡単と言うから親先生は、そげん言うばってん、そげん簡単なこっじゃなかろうと、こういう風に多寡を括っておるのではなかろうか。ね。もうそれこそ求めに求めて。
 合楽理念に触れた時に、もうそれこそびっくりするように、ね。甘木の初代が初めて小倉にお参りされた時に、天地の大恩を聞かれた。どこでも天の尊い話は聞くけれども。大地はいうならば忌み土というて、汚れた所の様に聞いてきたけれども。金光教ではその大地そのものを神様。ね。天は父なり地は母なりと言う様なお話を頂かれた時に、もうそれこそ足元から、鳥が飛び立つ思いであったと、後年述懐しておられます。だからいわゆるその名古屋の方と言い、今の何々教会の先生と言いです。
 私は合楽理念に触れられた時に、それこそびっくり今までいうなら、金光教の偉い先生のお話やら、それこそ繰り返し繰り返し読まれたであろう、そのご本を全部合楽にいうなら、送ってこられたと言うほどしですから。イメージアップが出来た。はぁ今まで探し求めて習うた事は、これは本当な事ではなかった。この信心こその合楽理念こそ、天地の親神様のお心を、このような表現でです。ね。
 私は先日久留米の矢次さんがん亡くなられましてから、ここで告別式がありました。もう、椛目時代から、何十年の信心ですけれども。横のつながりというものがなかったですね、矢次さんは。だからご大祭の時なんかは、ご夫婦でもうあのご直会造りなんかには、ようしよります、それこそ献身的に御用なさいました。けれどもあんなに沢山のご参拝があるとは思わなかった。もうとにかく新館に補助椅子が出てましたが、補助椅子までいっぱいでした。そらどうして素晴らしい告別式でした。
 若先生が奉仕しました。その私は一番後ろから、玉串だけをお供えさせて貰おうと思うて、一番後ろに並んでおりまして、その先生が読み上げられる奏上文を、聞かせて頂いとります中に人間は土より出でて、土に帰るのだと。だからその道中とても土の心でという、あの皆さんも良く分かっておられるでしょう。土から土に帰って行く。だからその道中とても自分の、わがまま勝手な生き方をせずに、土の心を芯にしての信心生活が出来ると言う事がおかげなんだと、言う様なそこを聞かせて頂いとる時にです。
 私はその朝神様にお夢のお知らせを頂いておった。それが矢次さんがねその大地を、丁度お社さんの壺ち言いますかね、ものを干すとこそこば綺麗にこうやって、掃わいた様な所に字を書いておられる。そして神願に頂くのがききょうの花を、こう一枝頂いた。そして字に親先生、ききょうのきょうという字は、どげな風に書きましたですかねぇて、尋ねられた所を頂いたんです。ははぁ合楽でほんなら合楽理念の勉強でもなかった。成程久留米宮の陣を経て合楽に、三十年前にご縁を頂かれた方ですけれども。
 過去の信心と言うものが頭の中に、いっぱいあります。久留米で習うた信心宮の陣で習うた信心が、いっぱいありますから合楽の信心が、ただおかげを頂くから合楽に、来はおりなさったけれども、いわゆるイメージアップが出来てなかった訳です。はぁそれでも、やっぱ、合楽の中に、何十年と浸っておられたから、やっぱ、魂の世界に入っても、どうでも、やっぱり、安心の御霊として、おかげを頂きたいという願いがあるんだなぁと、こう思うとったんです。ね。あの、ききょうの花は紫でしょう。
 だから、安心の花。だからその安心の花を半分しか頂いてないけん、あと半分を私にききょうのきょうという字は、どげな風に書きましたかねと言うて、その大地に書きよりなさる所を頂いたんです。そしてその先生が読み上げる奏上文の中に、土より出でて土に帰る。だからその道中とても、土の心に徹して行かねばならんと言う様な事を聞かせて頂きながら。ははぁこれは土から出でて土に帰ると言う事は、帰卿なんだとその時初めて分かったです。ね。郷里に帰る事を帰郷するというでしょう。
 だからききょうの花とその帰郷と言う事。いわゆるこの世からあの世へ行くと言う事に、引っ掛けてある訳です。皆さんねだから魂の世界になってから、成程合楽にご縁を頂いておけば、尋ね尋ねしながらでも、それは行けるには違いないですけれども、ね。合楽との縁というのは、そんなもんなんですけれども。この世で合楽理念によって、和賀心の中にいうならば光を受ける。あの世は暗黒と言われる。暗黒の世界に行っても、合楽で頂いた信心の光に基づいて、尋ねることも求めることも要らん。
 もう一直線に合楽世界に入っていけれる様な手立てを、ね。・・・昨日は宮崎の佐田さんから電話がかかってきた。昨夜は大変おかげを頂いてと言う事である。もう親先生今度はもう夫婦で、本当こんな事おかげを頂いた事はありません。いうならば、イメージアップが出来ましたという意味の事を言われるんです。本当に合楽に行きゃおかげが受けられる。おかげが頂けるとその周囲に、沢山な人がやっぱ助かって行きよる訳。毎日佐田さんの所はお参りがある。そしてやっぱおかげを適確に頂かれる。
 所が今度のね。今度の福引を引いた時に頂いたのが、丁度繁雄っちゃまと一緒じゃった、同じものば引き当てた。もうその事だけで感動した。どげな籤じゃったですかち。ね。それがあのこの世は、あの世のためにあるという籤。皆さんも何人かあったけん、あったでしょう。佐田さんが感じられたような感動を受けられたでしょうか。五、六人ぐらいあったでしょう、あん時は。
 繁雄さんと御一緒の、ね。五、六人ぐらいあったでしょう。だから佐田さんが感じられたようにです。この世はあの世のためにあるんだと言う事を、繁雄っちゃまと一緒に頂いた時に感動が湧いて、もう俺達の信心な、本当にもう根本的に間違うとったぞと。もうこの世でおかげを頂かにゃん、おかげを頂かにゃん、商売繁盛のおかげを頂かにゃならん。病気を治して貰わんならんと言う事ばっかりに終始しておったけれども。
 そう言う事はもう、第二の問題であって、あの世に持って行けれるお徳を頂くための合楽の信心である。この世はあの世のためにあるんだ。もうようもここに気づかせて頂いたという、お礼の電話が掛って来ました。だからねそのそういう今までね、思うておった事がいうなら根本から変わってくる訳です。おかげを頂くと言う事から、信心を頂くという事になってくる。それには勿論本気で教えにも行じなければならない。自ずと和賀心が生まれてくる、我情我欲も取れてくる。
 そら本当に神様は一言一言、教えて下さる事は、間違いないでしょうがね。皆さんも感じられたでしょう。今日高橋さんの奥さんが、参って来とりますが。二、三日前総代会の時に、私が高橋さんにねあんた今大変な修行の所を、それこそ神様が無茶苦茶な修行をさせよりなさる。それを高橋定利さんはくちゃむちゃと頂かれた。ね。奥さんは私はそん時の事を、頂きよりなさっとに連れのうてお参りをせろかなんかやったろ。高橋さん自分の事もあんた覚えとらんのそげなことは。(笑)
 確かそうでしたよ。だからいうならば、主人がもうこげな、今きつい所を通りよるから、ね。ここはお前もいっちょどうでんこうでん、忙しかろうばってんどうかくり合わせをして、せめて月次祭ぐらいは、夫婦で揃うて参るぞという風に言わんのと、私が言いました。そらそげなこつ先生あなた、言いなさたっちゃうちの家内の忙しかつち言うもんは、とても、参られる時間な無いかち言うこつです。晩でん何でん帳簿しよるから、絶対もうてんで、私は反対に怒られるごたる感じじゃった。(笑)
 私がまた怒り返した。(大笑い)あんたが、そげなこつ言うとる間、絶対おかげ頂かんばいち。ね。この頃壮年会の時に、何ち頂いたかと。ない袖は振られんというけれども、無い袖の下を振れと、私が言うとろがと。忙しかけん参られんというのは、もう神様も知ってござる。まぁ知ってはござろうけれども、参られんような中にあっても、どうでも、参らせて頂きたいという。
 いわゆる無い袖は振られんというけれども、その袖の下を振らせて頂いて、はじめて、お徳というのは頂くとばいと。今この苦しい時に言うなら、あんた一人の信心じゃなくて、それこそ私だん苦しゅうして苦しゅうしてこたえん時には、もうそれこそ朝も晩も家内と、それこそ手に手をとってのご参拝でした。という風にまぁ言うておりましたが。私の言うておった事を、神様が聞いてござったかのように、高橋さんの奥さんが引き当て・・・確かそうでしょう。
 高橋さん。どこおるの、高橋さんの奥さんは。今日参って来とる。それがその連れのうて参れという、やっぱりちゃんと言うその札を頂いとるですから。だから神様が私が言う事には、神様が保証して下さってある。保証ちゃ今日、行橋の支部長がお礼に出てきてから、大変感動するんですけれども。もう本当に恐れ入ってしまいます。私が頂いたのは、これでございます。家の良太郎が頂いたのはこれでございますと言うて、札を出しましたのを、私も見てから感動しました。
 神の保証だったか。神が保証すると。神様から保証されるぐらいな、いっちょ信心を頂きたいですね。まぁだ小学校のまぁ中学校に行かんくらいですけれども、神様がお知らせを下さるんです。神様が保証してまぁ育てようとなさっておられるのです。そういう今日は、お取次をさせて頂きましたがね。だから神様の一言は有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳があると仰せられるのですから。
 皆さんが頂かれたあの籤は神の一言だと思うて、ね。それを有難くいわば一年間の信心の指針として、頂きぬかせて頂くならば、ね。もう本当に神様の一言とは、大した事ですばい。私はこの寒修行の始まる朝、その日田の綾部さん達が、ご一家で参って見えた。はぁ、お孫さんと二人で参って見えたばいのと思うちから、目が薄かもんですけんね。はぁ、孫がこげん太ったじゃか、まぁだ小学校じゃったが、中学校ぐらいに見えますもん。そしたら何の、こら和義でございます。長男です。
 それが糖尿病で、もう痩せ細ってもう本当に、私は孫と二人参って来ちゃると思ったです。本当ですよ。そしたらどうですか。私はその時に御神米を十体下げた。これからは、参ってくるなら下げるというて、十体下げて一体ずつ必ず頂きなさいち私が言うた。今日で何日ですか。何日になるの四日。まず四日御神米ば毎日一体ずつ頂いた。ところが今あの、綾部さんがお届けされますとね。
 あれからね毎日参って、今朝私はそれを感じたんですけれども。あらえらい模様が良うなっとるなぁと思うたら、三キロ増えとるげな。四日間で。親先生から御神米一体ずつ必ず頂けと。その必ず頂けが、和義さんに響いた訳なんです。そして毎日一体ずつ頂く事に。親先生が言われたから、頂くと言う事になった訳です。もう御神酒も何も感も全部頂いてしまう。そしたら四日目にはいうなら三キロ増えた。私は本当に今日は顔が見良かぐらいに、今日あったです確かに。
 よもや腫れてござるとじゃなかろうと、私は思うた。いや本当。ね。だから神の一言というものはね、本当に神様のお徳を下さる働きなのですから。それを実験して実証して行かなければ、有難いおかげにも繋がりませんし。同時に今朝から頂きますように、日々の改まりが第一と仰る事を、今日は私は過去の信心観念と言った様なもののイメージアップ。それは長年金光教の信心をしておっても、その金光教の信心をしておった人が、今日、手紙が来ておる、○○教会の先生じゃないけれども。
 これからの金光教は、こうでなからにゃいかんとこう言うておられるように、過去の金光教というものを、振り捨てて振り切って、そして合楽理念に基づく所の金光教をね、頂いて行く事にならんと、すっきりしたおかげになってこない。そのおかげを愈々広げて行こう、大きくしていくというね信心を、愈々身につけて行きたい。今月は今も申しますように、いわゆるこの元旦またこの一月に、信心の一つの目当てというか、それを皆さんが頂かれた訳ですから、ね。
 愈々それを実験実証して、その目当てを、教えの目当ては出来た。だからその教えを行ずる、その願いの目当てというものは、十五年の記念の御大祭であり、来年迎える所の、教祖百年祭を目指してもう今から、久富先生じゃないけれども、吉田先生じゃないけれども、もうそれこそ、お得意さんにでも行って、お話をしてまぁちょっと、百年祭にお参りをする約束までしてきておるというようにです。そう言う事になったら、私は合楽からの千人参りは、もう楽々とお参りが出来るんじゃないかと。
 そういう働きこそ神様がお喜び下さる働きになってくると思うんです。昨日はロンドニアから手紙が参りました。末永先生ところの、分教会になっております。サンパウロまで八日間かかる。サンパウロまで出てくるとに。そういうそれこそ山には虎が住む様な所からです。今度の百年祭にはどうでも信者を引き連れて、百年祭にお参りをさせて貰いたい。合楽教会の親先生にもお目にかかりたい。
 ぜひお繰り合わせを頂くようにと願っております。皆さんもただ自分だけが参りゃ良いかといった様な、簡単なものじゃなくて、そういうそれこそ一家一門を引き連れて、お参りが出来るように、願いを矢張りさせて貰う。その願う根本の心というものが、教えに基づいたものでなからなきゃならない。しかもその教えがね、いわゆる日々の改まりが第一という事は、今までの考え方というものを、改めてと言う事だと思うです。いわゆるイメージアップして、いわゆる合楽理念による。
 もう純粋の合楽理念による所の助かりというものは、かく助かられるんだという実証をさせて頂いて。その実証を踏んまえての今後のいうなら、今年の十五年の記念祭であり、来年の百年祭であると言う事でありましたら、信心がこう一回り一回り大きくなって行くように思います。どうぞね。豊かになりなさい大きゅうなりなさいと言う事は、もう必ず豊かになれば、おかげが豊かになってくるです。
 大きゅうなりゃ絶対おかげも大きゅうなってくるです。大きなおかげを頂きなさいじゃない。さらには大きな心になりなさい。豊かな心になりなさい。それを成程成程だけじゃ、なかなかだけど。教えの一つでも良い。自分に神様が下さった神の願いというものを引かせて貰い。その神の願いを本当に実験実証の上に、表して行くという生き方を、身につけて行くことの楽しみ。合楽ではいわゆる簡単です明瞭ですと、こう言われるが。結局本気でその教えを行じようという構えを造ったら見やすいのですよ。
 何十年も話を聞いとるだけで、見とるだかでは絶対太りはしません。豊かにもなりません。その教えを愈々徹底して、守ろうという構えを作らなければ、教え一つも血にも肉にもなりません。そういう実験実証を踏んまえて、いわゆる十五年祭を祈って行こう。また、百年祭をお繰り合わせを願うて行こうという訳であります。この世はあの世のためにあると、ね。それを引き当てた佐田さんが。
 それこそ今までの信心のイメージアップが出来た。しかも夫婦で。今までの信心のおかげおかげばっかり言うて、あの世のためではない。この世のための事ばっかりを願うてきたが、これからはお父さんいうならば、もうそれこそあの世に持って行ける事のための信心修業に切り替えさせて頂くと言うて、夫婦の方達が話してある。素晴らしいイメージアップです。皆さんもイメージアップしての教え。そしてそれを実験実証。しかもその心で愈々、もっとより大きな願いを立てて行こうと言うのでございます。
   どうぞ。